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小説・クロスステッチ第1部 <完>
第9章 染まる染まらない~第15章 許されざる者許す者


クロスステッチ 第1部第15章 許されざる者許す者 第4回

2010.04.05  *Edit 

 7月の最後の週の金曜日。
 横浜市内の、某懐石料亭で父、宗次と増山が会う事になった。
理子も同席するように言われた。父は仕事の合間だし、増山も学校を
午前中で早退してくる。だから理子は一人で某所へ向かった。
平日の昼間に、増山と行動を共にはできない。
 既に夏休みに入っているので、理子は毎日、朝から晩まで勉強漬け
だった。たまに気分転換で外へ出たり、部活で学校へ行くものの、
去年までとは違って殆どが自宅学習だった。先日受けた模試の結果は
上々で、その結果を踏まえての学習内容を、増山からしっかり聞いている。
それに沿って勉強を進めているのだった。今日は、図書館で調べたい事が
あると言って、家を出て来た。
 指定された店は、とてもわかりにくい場所にあった。事前に地図で
調べておいて正解だった。理子が到着したのが指定時間の10分前だった。
店に入ると、ちょうど父とかち合った。二人で一室へ案内される。相手が
相手だけに、オープンな場所では会えないし、また話しが話しだけに、
場所を選ぶ。
 宗次はよくお客さんとの商談で使うこの店を提案した。学校からは
離れているし、個室でゆっくりと話しができるので、お誂(あつら)え向きだ。
 部屋へ通されて、ちょっと腰を落ち着けた時に、増山から“今到着した”
とのメールが入った。それを父に伝えた。
 「まぁ、時間厳守だな。最初から時間を守れないようじゃ、困るが」
 憮然とした様子で言う。
 間もなく、増山が案内されてやって来た。理子は緊張した。
 「どうも、はじめまして。増山雅春です。理子さんの担任をしています」
 増山は、部屋へ通されると、すぐにその場に正座して、理子の父に
丁寧に挨拶をした。
 「ああ、どうも。理子の父親の吉住宗次です。今日はわざわざ、恐縮です」
 増山は、宗次のその挨拶に違和感を覚えた。わざわざ恐縮、とは、
こちらの台詞ではないのかと思ったからだ。
 「さぁ、どうぞ」
 と、席を勧められた。宗次の正面で理子の隣である。増山は少し
不安そうな面持ちの理子に優しく微笑みかけた。今日の日の為に理子と
父が話した内容は既に聞いている。だから、最初から風当たりは厳しい
だろうと予想していたが、思いのほか雰囲気は悪く無いのが、
逆に不安を誘う。
 理子の父親である吉住宗次は、昔の俳優に似た感じの整った
顔立ちをした温厚そうな人だった。眉毛がきりりとしていて、
鼻も高い。一重瞼だが腫れぼったい感じが無く、知的で男らしい
風貌だった。理子と似ている所と言ったら、鼻と口と顔型か。
それと、髪のボリューム。
 理子の母親は丸顔で、全体的に優しい面立ちだが、その中で瞳だけが
勝気な性格を滲ませていた。理子の瞳は、母親をベースにして、
父親が少しミックスされているような感じがした。雰囲気は確かに
母親似なのだが、理子には母親のような勝気さは感じられない。
父親の温厚さが滲み出ている感じがした。本人の、どちらにも似ているし、
どちらにも似ていないと言う言葉に納得した。
 「増山先生は、東大出身でいらっしゃるとか」
 宗次が穏やかな表情で訊いてきた。
 「はい、そうです」
 増山は緊張した。こんなに緊張するのは初めてだった。
 「東大まで入りながら、何故、県立高校の教師に?もっと他にいい
道があったのでは?」
 よく聞かれる事だった。
 「よく言われますね。でも、東大と言っても文学部で、しかも日本史
ですから。僕は研究室へ残るか迷ったんですが、どうも大学と言う所も
人間関係が複雑でして。それが嫌で外へ飛び出したんです。日本史の
研究を続けたかったので、そうなると矢張り教師の道が妥当かと」
 「ほう、そうですか。何だか勿体ない気がしますが」
 「よく言われます」
 増山はそう言うと笑った。自分の道に迷いは無いからだ。
 「それで、娘の受験の方はどうなんでしょう?東大を受験すると
聞いた時には驚きましたが」
 宗次は笑顔である。その真意が汲み取れない。
 「受験の方は順調です。先日の模擬試験でも好成績でしたので、
このまま計画通りに進むのみです」
 「まさか、私の娘が東大を受験するとはねぇ。私はビジネスの専門
学校を卒業しただけですから。家内の方はお嬢さん大学を卒業して、
頭もいいようですから、家内に似たのか」
 増山は、どう受け答えしたら良いのかわからず、笑ってやり過ごした。
 「ところで先生。娘が東大を受験するようになったのは、先生の
影響のようですが・・・?」
 笑顔の中の目に鋭い光が射したように感じられた。
 「僕の影響と言うわけではないでしょう。日本史を勉強したいと
言うので、それなら東大を目指すよう勧めたのは僕ですが」
 「その時は、娘はまだ東大なんて足元にも及ばないレベルだった
筈なのに、何故なんです?」
 「まず、国立を目指していた事が1つ。国立で日本史となると、
いい大学は限られてきますから。それから、僕自身、自分が通って
いた所ですからよくわかっています。その内容の良さや、蔵書の多さ
など、他を寄せ付けないものがあります。彼女は、理数系は大変苦手
ですが、文系はとても優秀でした。特に、歴史の造詣の深さには僕も
目を見張るものがあります。だから、その辺の大学で学ばせるのは
勿体ないと思ったんです。理数系さえ克服できれば、決して夢ではない
位置にいると判断したので勧めました。まだ2年でしたから、しっかり
基礎を固めれば間に合うと思いました」
 「そうですか。それで、娘は必死に勉強して、ここまで来たと
言うわけですね」
 「そうです」
 「それで、あなたは何故理子と付き合うようになったんですか。
相手は教え子だ。好きになったとしても、せめて卒業までは言わずに
おこうとか、思わなかったんですか」
 やっと核心に触れて来た。だが、急所を突かれた思いだ。誰だって、
同じように思うだろう。
 「すみませんでした。卒業してから言おうと、最初は思っていました。
ですが、どうにも気持ちが高ぶってしまい、抑えきれなくなって
しまいました。日々、彼女とふれあう度に、自分の心が変化して
いくのを感じて、限界を超えてしまったんです。ほぼ無意識のうちに、
告白してました」
 増山は正直に話した。
 「先生は、おいくつですか?」
 「23です」
 「成る程、お若いですね。若さ故の情熱がそうさせたんでしょうかねぇ」
 「お父さん。若いからと言って、一時の、熱に浮かされているわけでは
ありません。真剣に彼女を思っています。だから、結婚させて欲しいんです。
お願いします」
 増山はそう言って、畳に手を着いた。
 「あなたは、全てにおいて短絡的な人なんでしょうかね。告白も早ければ、
結婚も早い。何故、待つということができないんです?」
 にこやかだった顔が厳しい表情になってきていた。
 「直情的な面がある事は確かです。ですが僕は、普段はどちらかと言うと、
計画的に冷静に進めていくタイプなんです。ですが、事が理子さんの事と
なると、そうはいかなくなってしまう。出会ったのが早過ぎたのかも
しれません。何故待てないのかとおっしゃられましたが、僕は理子さんを
愛するようになってすぐに、結婚したいと思いました。魂ごと惹かれて
いるんです。一生彼女のそばにいたいと強く思いました。その時から既に、
8,9カ月経っています。気持ちは以前よりも深まっています。僕に
とっては、卒業するまで1年以上待つんですよ。それなのに、更に
それから大学を卒業するまでの4年なんて、とても待てません。早く一緒に
なって、お互いに安心して自分達の道を開拓し、進んで行きたいんです」
 冷静な雅春だったが、言葉に熱を帯びていた。
 「早く結婚してしまうよりも、もう少し待てば、堂々と恋人同士と
しての交際を満喫できるんじゃないですか?せめて、成人するくらい
までは待っても良いと思うが」
 雅春の言葉を静かにかわすように宗次は言った。
 「お父さんのおっしゃる事も尤もです。ですが、彼女も大学へ入れば
忙しくなります。他の学生のように、入学したら学生生活を満喫する、
なんて為に入るわけではありません。僕もあそこへいたからわかりますが、
本当に勉強したい人間にとっては、遊んでる時間なんてそう無いんですよ。
僕も教職ですから、受験や部活の世話で忙しいです。僅かな時間を縫って
逢うなんて、正直時間が勿体ない。僕がこんな事を言うのもなんですが、
お宅は門限も厳しいですし。既に結婚の意思を強く持っている二人に、
そんな時間が必要でしょうか?」
 「先生。先生のお気持ちはわかりました。ですが、父親としてはね。
大人である先生が、そこまで真剣なのが、ピンとこないんですよ。
だって、理子はまだ子供じゃないですか」
 「彼女は、まだ若いですが、決して子供ではありません。確かにまだ
完全な大人とは言えないかもしれませんが、冷静でしっかりした人です。
結婚だって、なかなか受けてくれませんでしたから」
 増山の言葉を受けて、宗次は娘を見た。理子は黙ってテーブルの上に
視線を落としていた。
 「教師と生徒と言う間柄ですから、卒業してからも周囲の風当たりは
優しくないでしょう。だから僕は、彼女が東大を合格したら、と条件を
付けたんです。そのかわり、万一落ちたら、延期します。今月中に
お父さんにお話ししたのは、来年のゴールデンウィークに式を上げたいと
考えていますので、その為の式場の予約を夏休みのうちに済ませて
おきたいと思いまして」
 「ゴールデンウィークに挙式?今から予約して落ちたらどうするんですか」
 「キャンセルすれば済む事です。3月末に入籍したいので、式もそれに
合わせてと思ったんですが、それでは合格発表から日もそう無いですし、
我が家の方では早々と準備していて、そちらは寝耳に水では、あまりに
失礼かと思いまして」
 宗次は雅春の言葉に驚いた。
 「我が家って、それじゃぁ、先生のお宅は既に了解済みなんですか?」
 「はい。理子さんとは、去年の10月からお付き合いをさせて貰っています。
家族にはすぐに紹介しました。両親と、それから2歳違う姉がいるのですが、
みんな彼女をとても気に入っていて、喜んでくれています」
 「気に入ってるって、受け持ちの女子高生が相手なのに?」
 宗次は自分の耳を疑った。
 「最初に話した時は、矢張り驚かれましたが、実際に彼女と会ったら
納得してくれました」
 「先生、その、ご家族の事を教えて貰えませんか。何をなさってるんです?」
 あまりの話しに宗次は慌てた様子を示した。
 「父は中田製薬で取締をしています。母はお茶とフラワーアレンジメントを
教えています。姉は税理士です」
 それを聞いて、宗次は驚いた。中田製薬は最大手だ。そこの取締役とは。
それなら、相当の資産家だろう。そこの長男なのか。確かに育ちが良さそうだ。
 「なんだか、かけ離れた家庭環境という気がしますね。そういう所へうちの
娘を嫁がせて大丈夫なんだろうか」
 心配そうに言う宗次に、雅春はにこやかに答えた。
 「それについては、心配には及びません。うちではみんな、彼女を僕より
可愛がっていますから。姉なんて、可愛い妹ができたと大喜びしていますし」
 「それでももし、将来何かの事で諍いになった時、貴方はどうしますか」
 増山は即答する。
 「勿論、僕は彼女の味方です。僕にとっては、彼女が一番大事ですから」
 「肉親よりも?」
 「肉親よりも、です」
 増山は強い意志を持って、宗次を見つめた。何があっても絶対に揺るが
ない自信を込めた。
 「お父さん。ご両親には本当に申し訳ないんですが、反対されても一緒に
なります。この愛だけは譲れないんです」
 宗次は増山の真剣な眼差しに心が揺れた。
 じっと目の前のテーブルに視線を落としている娘に声をかけた。
 「理子は、どうなんだ?反対されても、矢張り一緒になるつもりなのか?」
 「ごめんなさい。私も、先生と同じだから。それに私、早く家を出たいし・・・」
 理子は呟(つぶや)くように言った。
 「お父さん、僕がこんな事を言うのは僭越(せんえつ)かもしれませんが、
僕は彼女を、早くお母さんの呪縛から解いてやりたいんです。家にいると、
過ぎる程の干渉と監視の目に晒(さら)されている。そのせいで、彼女は何か
事があるとすぐに委縮してしまう習性が付いてしまっています。この間、
彼女が風邪で休んだ時に見舞いに伺いました。お母さんは足音を立てないように
彼女の部屋へ行き、ノックもせずにいきなりドアを開けられました。そういう
事が日常茶飯事だと聞いて、僕は驚きました。お母さんはとても愛情の深い人
だとは思います。ですが、その示し方には共感できないものがあります。
お父さんには、おわかりかとは思いますが」
 宗次は腕を組んで、目を瞑(つむ)った。他人にそこまで言われたくは無いが、
確かに妻の行動は目に余るものがある。だが、宗次にはそれをどうにも
できなかった。激し過ぎる妻を、受け止める事ができずに月日が流れて
来たのだった。
 「お母さんはきっと、反対するだろうな。この事を知ったら、きっと
烈火のごとく怒るだろう。その覚悟はできてるのか?」
 宗次は理子にそう尋ねた。
 「覚悟はできてます。それに、怒られるのは、馴れてるし」
 理子は、そう言って微笑んだ。増山は、理子のその微笑みを見て胸が痛くなった。
 「お父さん。理子さんは、僕が一生、命を懸けて守りますから」
 増山はそう言うと、再び畳に手を着いた。
 そんな二人を見て、宗次は息を吐き、腹を決めた。
 「わかりました。私も理子の事は、前から不憫に思ってはいたんですよ。
最初の子供という事もあるのでしょうが、家内にとっては、何もかもが
初めてでしょう。それだけ、理子には思い入れが強くなるようです。
その反面、期待と比例して何故か風当たりも強くて。それに、猜疑心が
とても強い。自分以外の人間を信じようとはしないんです。それが
家族であっても。そういう中で押さえつけられて育ってきたから、
理子が早く家を出たいと言う気持ちも理解できます。だからと言って、
この若さで結婚と言うのには矢張り抵抗はあるんですが、先生が理子を
命懸けで守ってくださるとおっしゃるのなら、私はもう何も言いません」
 宗次の言葉に、増山と理子は顔を見合わせた。理子の顔が明るくなっていた。
 「お父さん、ありがとうございます」
 増山は手を着いて礼を言った。
 「誤解されては困りますから言っておきますが、許しただけであって、
賛成しているわけではないですから。理子が不憫だからです。家内は
理子をいい大学に入れて、卒業後はいい会社に就職させて、20代後半
くらいに、自分が気に入ったしかるべき相手と結婚させようと思って
いるようです。その時なら、先生からの申し込みに反対はしないでしょうが、
如何せん、若過ぎる。東大に合格したら、とても喜ぶだろうから、
その反動の大きさも予想できます。きっと、嵐のようになるでしょう。
それを思うと、私も恐ろしいです」
 宗次はそう言って、理子を見た。その顔には笑みが浮かんでいた。
 「お父さん。娘がいなくなるのではなくて、どうか息子ができると
思って下さい。理子さんから聞いてますが、お酒と将棋がお好きだとか。
僕はどちらもいけますから、相手をして下さると嬉しいです」
 「そうですか。それは嬉しいなぁ」
 宗次は増山の言葉に相好を崩した。
 「ところで、3月の末に入籍して、住まいはどうするのかな?先生は
ご長男だから、同居されるんですか?」
 宗次は二人の顔を交互に見た。
 「その件ですが、実は彼女の大学と僕の職場の両方が通いやすい場所に、
マンションでも買おうかと思っているんです」
 その言葉に宗次は驚きの表情を示した。
 「マンションを、買う?賃貸じゃなくて」
 「はい。そのつもりです」
 「そんな、君、簡単に・・・」
 幾らボンボンとは言え、軽率なんじゃないか、との思いが宗次の胸に
湧いてきた。
 そんな宗次の胸中を察したのか、理子が言った。
 「お父さん、驚くのも無理無いわよ。私も驚いたから。でも先生、
お金持ちなのよ。ローンを組まなくても買えるお金を持ってるそうなの・・・」
 宗次は大手ハウスメーカーの営業マンである。宅地建物取引主任者の
資格も当然持っている。所謂(いわゆる)、宅建で、不動産業務を行う場合に
必要な資格である。これを持っていれば、不動産屋として独立する事もできる。
長年、この道で生きて来たので不動産関係については当然、詳しい。だから
こそ、増山の簡単な言い様に不安を覚えるのだった。
 「すみません。自慢するわけでは無いのですが、少々株式投資をして
まして、かなりの金額を持っているんです。持っているのですから、
ローンを組む必要も無いですし、良い物件があれば、わざわざ賃貸で住む
必要も無いですよね。生活の方は、僕の教師としての微々たる収入でやって
いくので、贅沢はさせてあげられませんが、住まいの心配くらいは
かけずにやりたいと思いまして」
 宗次にとっては、信じられないような話しだ。まるで狐につつまれて
いるような気がしてきた。
 「その、因みに、どの辺にどのくらいの物件を考えてるんですか」
 「田園都市線なら、彼女が東大に通うのにも、僕が職場へ通うのにも
丁度良いと思っています。たまプラーザか、その前後の駅から近くて、
100平米以上、できれば120平米くらいあればいいんですが」
 宗次は目を剥いた。この男は世間知らず過ぎる、と思った。その界隈で、
駅から近くてそんなに広い物件なんて、早々無いし、あっても高額だ。
 「先生、それは無茶な話しだ。そもそも、まだ若いのに、分不相応
じゃありませんか」
 「おっしゃる事はよくわかります。あくまでも希望ですから。最優先
されるのは場所です。通勤通学に便利な場所でないと困りますから。
その上で、できるだけ広い面積を望んでいます。リビングや寝室の他に、
各々が勉強できる独立した部屋が欲しいんですよ。それと、できたら
グランドピアノを買ってやりたいので、そのピアノが置ける広さは欲しいと」
 その言葉には、理子も驚いた。
 父と娘は顔を見合わせた。
 「マンションを買うだけじゃなくて、グランドピアノまで買うんですか」
 父は半ば呆れ顔で言った。
 「彼女の話しですと、妹さんもピアノを習っているそうじゃないですか。
そうなると、ピアノを頂くわけにはいかないので、彼女が弾く為のピアノが
必要です。どうせ買うなら、彼女が以前から欲しがっているグランドを
買ってやりたいと思いまして」
 「せ、先生のお気持ちはわからないでもないが、それこそ分不相応
でしょう。買うにしてもアップライトで十分じゃないですか。音楽家に
なるわけではあるまいし」
 「彼女はよく、合唱部の部活の後に残って、学校のピアノを弾いて
いました。家にピアノがあるのにです。それは、グランドピアノで演奏
したいからなんですよ。家庭の事情で、ピアノを買われたのも遅かったよ
うですし、お金が無ければ無理して買いはしませんが、あるんですから
買ってやりたいんです。それに僕も音楽を趣味にしているので、彼女の
ピアノで一緒に演奏したいんですよ。楽器は予算が許す限り、良い物を
入手するに越した事はありません。将来の子供の為にもなりますし」
 理子は増山の言葉を嬉しく思った。合唱部の練習の後に理子が学校の
ピアノを弾いている理由は、正に増山が言った通りだ。だが、それを
増山に話した事は一度も無かった。それなのに、察していてくれた。
本当に増山の勘の良さには感心する。言わなくてもわかってくれる
増山に感動するのだった。
 「貴方には呆れますな。そんなことでは、理子の為に
身上(しんしょう)を潰しますよ」
 「そうですよ、先生。先生の気持ちはとっても嬉しいけど、もしかして
先生って、経済観念が薄いんじゃないかって、心配になってきちゃいます」
 増山は二人にそう言われたが、どうも二人の言う事にぴんとこない。
使っても困らない程あるのに、何故ちょっと使う事にこんなに驚くのだろう。
しかも、無駄な物に費やすのではなく、必要な物を買うだけなのに。
 「そんなに、心配なさらなくても大丈夫ですから。投資で成功できる
くらいですから、お金の勘定には自信があります。幾ら使えば幾ら
残るかくらい、ちゃんとわかっています。いい気になって使い切る
ような馬鹿な真似はしませんから大丈夫ですよ」
 増山はそう言って笑った。
 だがそうは言われても、貧乏な庶民の宗次にとっては心配だ。
若いうちからそんなに贅沢をして大丈夫なのだろうか?金持ちとは
言っても、人生何があるかわからない。転落しないとは限らない。
そういう時、若いうちから贅沢に馴れていると、耐えられない恐れがある。
 「お父さん。心配しないで下さい。僕は十分弁えているつもりですから。
彼女を不幸にするような事は決してしませんから」
 「だからと言って、あまり娘を甘やかさないで下さい。まだ若いん
だから、本人の為にも良くないでしょう」
 「わかりました。胸に刻んでおきます。自信はありませんが」
 そう言って、増山は笑った。どうも、理子が喜ぶ事なら、何でもして
やりたい思いに駆られてしまうのだ。そんな増山の顔を見て、宗次は
矢張り不安を覚える。
 「住まいの件ですが、良ければ知り合いの不動産屋を紹介しましょうか。
うちはハウスメーカーで一戸建てが専門なのでマンションは扱ってないんだが、
仕事関係で知り合いならたくさんいるので」
 と、宗次は言った。少しは協力してやらねばなるまい。
 「それは助かります。是非、お願いしたいです」
 増山はそう言うと、慌てて懐から自分の名刺を出した。
 「すみません、もっと早くにお渡しするべきでしたのに」
 「いえいえ、こちらこそ」
 と、宗次も慌てて名刺を出して交換した。
 「いずれ、父の方からもご挨拶に伺いたいと申してました」
 「先生のお父さんが?」
 「大切な事ですから。まだ未成年の娘さんを頂くわけですし、
しっかり自分からも挨拶したいと」
 「そうですか。わかりました」
 こうして、会見は終わった。当初はどうなる事かと思ったが、
最終的には和やかな雰囲気で終わったので、増山はホッとした。これで、
まずは最初の山を越えた感じだ。片親だけでも、承知していてくれると、
精神的に大きく違う。理子も安心して勉強に打ち込めるに違いない。
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